2010/12/07

脳と心の関係は、コンピュータのハードウェアとソフトウェアの関係に相似す る。

脳と心の関係は、ちょうどコンピュータのハードウェアとソフトウェアの関係に相似する。

脳は実体をもち無数の信号が行き交い反応しているが、心は物(ぶつ)として実体のない現象である。ちょうど宮沢賢治「有機交流電燈のひとつの青い照明」であると、自らの存在を規定したように。少なくとも「脳」という依代なしに、独立して「心」という現象は存在し得ない。

これはコンピュータのハードウェアとソフトウェアの関係と相似している。

ハードウェアは実体として「物」そのものであり(ファームウェアはとりあえず横におく)、内部では無数の電気信号が行き交っている。その上でソフトウェアという物ではない現象が、一つ一つの電気信号に意味と意図を与えることによって実在する。ここでも「ハードウェア」という依代なしに、独立して「ソフトウェア」という現象は存在し得ない。

この話、同僚から不意に「脳科学者と精神科医って何が違うの?」と問われて説明したときの喩えである。脳というハードウェアからアプローチするのが脳科学者, 現象としての心からアプローチするのが精神科医だ、とそんな風にまとめて。

……書いてみて気づいたけど対比させるなら「脳科学者と心理学者」(全般が興味領域, 学究的)か「脳神経科医と精神科医」(病が興味領域, 工学的)であるべきだよな。

さておき。

幸いにして「じゃぁ、ソフトウェアとしての「心」は複製可能なのか? 別のハードウェアへ移植可能なのか?」という難しい反撃は受けずに済んだ。そのような反撃を受けると、ややこしい説明を弄り出さねばならず、難儀しただろう。

……でも、その方面の想像は妄想としても楽しいよな。

そんなわけで以下は妄想の垂れ流し。

「心」の複製や移植ができないのは、その設計書がないからだ、と仮定する。つまりハードウェアとしての「脳」, ソフトウェアである「心」のアーキテクチャの完全な設計書が公開されれば、それは可能だと仮定する。

我らが創造主は、ソースコード至上主義者だったのか、それとも不精だったのか、はたまた特許ビジネスに目をつけたのか。理由は分からないけれど、脳と心の設計書は非公開である。

となるとリバースエンジニアリングして設計書を書き起こすより仕方ない。その試みが心理学であり、脳科 学なのだろう。

彼らの挑戦が実を結んだとき、つまり脳と心の完全な設計図が再現されたとき、さてはて何が起きるか。

脳に関しては、おそらく科学的知見としてオープンソース化されるだろう。ロボットやコンピュータのテクノロジへ転用されたりして、たいそう楽しいことになるだろう。人間と同じように経験から学習するロボットやコンピュータが登場したりして。

さて他方、心はオープンソース化されるか否か? 例えば「経験」はプライバシーに属するものであるハズだけど、それはコードなのか、それともデータなのか? コードであるならば、オープン化の対象になるべきなのかどうか。フリーソフトウェア財団が出てきて「心も自由に(利用でき、ハックできるように)なるべきだ!」と言うのかどうか。

あるいはコンピュータの中に、また広大なネットの中に「心」を宿すようなプロジェクトが起きたりするのじゃないか? でも、ネットのような群体に宿った「心」は、果たして一つの人格と言うべきか否か。

あるいは不変のシリコン系デバイスに自らの「心」を移植して「不死」を得ようとする試みが、かなり真面目に行われるのではないか。しかし、そうして得た不死の長い時間に「心」は耐えられるのか? パッチの適用やバージョンアップ、あるいは再構築による世代適応が必要になるじゃないか? やがて、その道の専門家が現れたりするのじゃないか?

やがて「心」はプロダクトになり、人々はそれを購入するようになるのか。継続的なバージョンアップやパッチ当て, 不具合・異常動作時の問い合わせの必要から、それは保守サービス契約込みで利用した期間に対して対価を支払うSubscription課金になったりするのか?

いやはや、徒然に妄想を逞しくするのはいと楽しい。

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