「鴉は黒いという命題を覆すには白い鴉が一羽いればいい」なんて、嘘だ

2026/06/15

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「鴉は黒いという命題を覆すには白い鴉が一羽いればいい」なんて、嘘だ

1. 「白い鴉が一羽いればよい」と彼は言った

「カラスは黒い」という命題をくつがえすには
何千何億の中に たった一羽
白い翼のものがいればよい!
覚悟! それはお前だ!

(出典: 覚悟のススメ)

ずいぶん古い漫画だが、シグルイでも知られた漫画家、山口貴由の作品、覚悟のススメという漫画のクライマックス、主人公・葉隠覚悟の兄で人類を滅ぼさんとした葉隠散の台詞である。

人類は悪をなす、人類は醜い、人類は救いようがない、ゆえに人類は滅ぼすべしである。

人類に絶望しきった散サマの固い信念が、葉隠覚悟の真摯な献身の姿を目前にしてひるがえっていく。

いやいやちょっと待て。ガンギマリにキマっていた、散サマの信念がたった一つの例外事例でひるがえるってどうなんだ? 散サマ、それまでどんだけの命を奪ってきたのさ。

古典力学…違う、古典論理には全称命題という考え方がある。
古典力学ではニュートンが白い鴉を放物運動させてしまう。いま必要なのは、白い鴉の軌道計算ではない。
古典論理である。

  • すべてのAはBである
  • BではないAが観測されたとき、この命題は偽である

つまりこの命題が真であるためには、対象となるすべての鴉が黒くなければならない。

一羽でも黒くない鴉がいれば、この命題は偽になる。

何千何億の中に たった一羽 白い翼のものがいればよい!

そういうことである。
たった一羽の白い鴉がいれば、「すべての鴉は黒い」は偽になる。

したがって古典論理的に、これは全く正しい。

「人類は悪をなす、人類は醜い、人類は救いようがない」という命題がある。
そこに、覚悟という一人の例外が現れる。この構図において、覚悟は白い鴉である。
覚悟が、悪をなさず、醜くもなく、救われた人間であるがゆえに「すべての人類は醜い」という命題は偽になった。
散サマが、人類を滅ぼすことを心に固く誓うほどにガンギマリにキマった命題が、である。

古典論理において、この展開は必然であり、明瞭であり、間違いなく正しい。

…って、いやいや。そんなわけあるかい。

2. 「いやいや、兄さん、なんでやねん」とベイズは言った

もしあなたが白い鴉を見たとする。実際、アルビノの鴉の画像だって、ちょっとWebで検索すればすぐに出てくる。何なら実は世界を見渡すと、そもそも黒くない鴉もいたりする。

でも、だよ?

だからって「鴉は黒い」という感覚が、がらっと変わったりするだろうか?
いちいち「闇夜の鴉」も「鴉の濡羽」も間違いだ、なんて言い出したりする?

「カラスは黒い」という命題をくつがえすには
何千何億の中に たった一羽
白い翼のものがいればよい!
アルビノの鴉! それはお前だ!

うん、ならないね。

世界はそんなにシンプルじゃない。もっと複雑で曖昧で不明瞭なナニカだ。

ボクたちは世界についての認識を、真か偽かの二値だけで持っているわけではない。
あることが「正しい」というとき、「ただし、例外もある」が常につきまとう。
あるいは「君は正しい、しかし私も正しい」の相反が常にあることを、大人になるにつれて知っていく。
ある人が言っていた「正しい」が、ある日・ある時、ひるがえる体験を重ねていく。

そうして学ぶ。いつでも・誰にとっても「確実に正しい」と言えることは、たぶん、あんまりない。代わりに何かを判断するときには、自分の知識や経験、手元に持ってるデータや情報から、それが「どのくらい確からしいか」に頼るようになる。

こういう仕組みを、かなりうまく説明してくれるのがベイズの定理である。

ベイズ理論では、ある仮説があり、そこに新しい観測が加わったとき、その仮説の確からしさがどのように更新されるかを考える。

ここで、仮説をHとする。観測をEとする。
するとベイズの定理は、ざっくり書けばこうなる。

\[P(H|E) = \frac{P(E|H)P(H)}{P(E)} \]

あ、うん。よくわかんないね。ボクもよくわかんないので、説明する。

  • P(H)
    • 観測を見る前に、その仮説をどれくらい確からしいと思っていたか
    • これを事前確率という。
  • P(H|E)
    • 観測を見たあとで、その仮説をどれくらい確からしいと思うか
    • これを事後確率という
  • P(E|H)
    • その仮説が正しいとしたとき、その観測がどれくらい起こりやすいか
    • これを尤度という
  • P(E)
    • その観測そのものがどれくらい起こりやすいか
    • ここでは細かく考えない

つまり、ベイズ的な認知とは、

  • もともと、どれくらいそう思っていたのか
  • 新しい観測は、その仮説のもとでどれくらい起こりやすいのか
  • その観測を見たあと、信念をどれくらい更新するべきか

を考える枠組みだと思ってくれればいい。「確からしさ」を、確率的に扱うところが特徴で、それがために数式で表現される。

散サマと覚悟のやりとりを、この枠組みに当てはめるとこうなる。

  • 仮説H:
    • 人類は悪をなす
    • 人類は醜い
    • 人類は救いようがない
  • 観測E:
    • 覚悟は正義をなす
    • 覚悟の真摯な献身の姿は美しい
    • 覚悟は人類を救う

古典論理なら、話は簡単だった。

「人類は悪をなす、人類は醜い、人類は救いようがない」に対して、覚悟という反証を、目前の事実として観測する。AはBであるという命題に対して、BではないAという反証が示された。命題は偽である!

…ベイズ的には「いやいや、兄さん、なんでやねん」である。

「人類は悪をなす、人類は醜い、人類は救いようがない」という仮説は、人類を滅ぼさなければならないと思い詰めるほどに、散サマを追い詰めた強固な「確からしさ」であったはずである。

ここで物語の中に深く踏み込んで解説する余裕はないが、それはもう強烈な経験を重ね、この仮説の「確からしさ」が確固たるものになっていた。
だからこそ、散サマはごくごく生真面目に「人類を滅ぼすべし」という使命を自らに負わせるに至ったのだ。

つまり、散サマの事前確率は高い。
一つの観測Eだけで大きく反転させるには、それがよほど強力でなければならない。

ベイズでは、この観測Eの強力さを もしHが真であるなら、Eはどれくらい起こりにくいのか という尺度で測る。
この場合で言えば「人類は悪をなす、人類は醜い、人類は救いようがない」という仮説が正しい世界で、覚悟のような人間が現れることは「どれくらいあり得ないのか」を測る。

冒頭のアルビノの鴉の事例では、それが「稀にはある」程度のことなので「例外もあるよね、生き物なんだし」ということで終わる。「鴉は黒い」は依然として、必要十分に確からしい。
だから「闇夜の鴉」も「鴉の濡羽」も依然として、必要十分な程度には正しい。

現実の認知では、こちらの方が自然だし、合理的でもある。
いちいち「白い鴉」もいることを考慮して、言い回しに気をつけたりするのは大変だからね。

同じように、覚悟というたった一つの反証事例を観測したからといって、強固な信念が即座に崩れるのは不自然だ。だって だいたいの人類は、悪をなすし、醜いし、救いようがない のだ。

これで仮説Hがひるがえるのは、更新幅が大きすぎる。

「いやいや、兄さん、なんでやねん」

3. 「そもそも絶対不変の命題などありはしない」と龍樹は言った

でも、だよ。

古典論理学でも、ベイズの定理でも、暗黙のうちに置いている前提がある。

すべての鴉は黒い
人類は悪をなす、人類は醜い、人類は救いようがない

古典論理学であれ、ベイズの定理であれ、これらが、いったん命題として成立していることを前提にしている、ということだ。

古典論理は、その命題が真か偽かを扱う。
ベイズの定理は、その命題を仮説として見たとき、観測によって確からしさがどう更新されるかを扱う。
しかし、どちらにせよ、「鴉」「黒い」「人類」「悪」「醜い」「救いようがない」といった言葉が、意味あるものとして立ち上がっていることを前提にしている。

では、その前提はどこから来たのか。

いやいや、その前提から疑いだしたら面倒くさいでしょ。鴉は鴉だし、「黒い」って言ったら黒いんだし…(以下略) それでボクたちの会話は成立してるんだし、それでいいんじゃないの?

でも、そういうことを考えちゃう人種がいるんだ。哲学者って人たちなんだけど。

中でもインドの龍樹おじさんは、たいへん面倒くさいことに、根っこの根っこまで掘り下げて考えた。
その考えは後の頭のいい人たちから「中観」と呼ばれ、その骨格を、ライムを利かせてぎゅっと詰め込んだ主著を「中論」と言う。(どうやら令和現代語訳も出ているみたい)

龍樹おじさんは、「鴉」とは何をもって「鴉」たり得るのか、ということを生真面目に考え抜いて、無数の「もの」や「こと」が関わり合う中で仮初に「そのようにある」だけだと言った人だ。
それは、無数の「もの」や「こと」のなにかが変わってしまったら、あるいはそれらの間の「関わり合い」が変わってしまったら「そのようでなくなる」こともあるということだ。
だから、絶対不変なんてものはないんだ、とまで言う。

いや、本当のところは鴉について考えたというわけじゃないけど、ここは話の流れということで。

ボクたちは世界を「こういうものなのだ」と与えられた前提であったり、固定的な事実であったりと思いがちで、そうした足がかりの上で、ものごとを見たり考えたりしがちだ。

  • 鴉は黒い鳥だ
  • 黒はRGBすべて0の色だ

こういう言い方は、日常生活ではかなり便利であるし、こういう基本的な概念や理解を、いちいち問い直していたら、鬱陶しくて仕方ない。

実際、たいていの鴉は黒い。
RGBすべてを0にした色を表示して、これは黒ではないという人もまぁ、いない。

それで日常は成立している。
見方を変えれば、それらを良しとすることでボクたちの日常は成立している。

それはそれでいい、とも龍樹おじさんは言っている。

でも、それらを絶対のものとするのは間違いだ、とも言っている。
少し勇み足ぎみにいうと「それら仮の命題を絶対不変とするのは問題だ」と言っている。

そもそも「鴉は黒い」という命題は、なにによって成立しているのか?
この命題で扱う”鴉”を鴉として成り立たせているものはなんなのか?

  • 身体
      • 羽毛
      • 皮膚
    • 胴体
  • 生態
    • 鳴き声
    • 飛び方
    • 食性
    • 繁殖

かなり雑だが、こんな感じで分解することはできる。

しかし、たとえば翼だけを取り出したものは鴉だろうか? 鳴き声だけを取り出したものが鴉だろうか? それではあるいは身体だけを取り出して生態を取り去ったとき、それは鴉であろうか?

あるいは翼だけを失ったとしたら、それはもう鴉ではないのだろうか? 食性だけが何らかの原因で他の鴉と異なったら、それはもう鴉ではないのだろうか?

あるいは、嘴の形がほんの少しだけ他と違ったら? 鳴き声だけがほんの少し他と違ったら?

また翼や嘴を持つという点でいえば他の鳥類もみな持つが、それらと鴉を違うものにしているのはなにか? たまたま鳴き声や飛び方、食性、繁殖の形態が同じような生き物が他にいたら、それと鴉を違うものとするのはなにか?

翼そのものが鴉ではない。鳴き声そのものが鴉ではない。食性そのものが鴉でもない。
しかし、それらと無関係に、どこか別の場所に「鴉そのもの」が隠れているわけでもない。

鴉を構成するものは、身体の特徴、生態、環境、他の鳥との差異、観察する人間の分類、そして「鴉」と呼ぶ言葉など、とてもたくさんの”もの”や”こと”がある。しかし、それらの一つひとつの何かが単独で、鴉を鴉として成り立たせているわけではない。

とてもたくさんの”もの”や”こと”のそれぞれが、複雑に関わり合って、鴉を鴉として成り立たせている。
それらの関わりの何かが変わることで、もしかしたら別のものになってしまうかもしれない。(見る人が変わることで、同じ鴉が、不吉な鳥になったり、賢い鳥になったり…というのは日常でもある例だよね)

そんな風にして「鴉は黒い」という命題以前に、そもそも「鴉」も「黒い」も、絶対不変のものではなく、だから命題そのものも絶対不変のものとして執着してしまうのは間違いだ。

そんな風に龍樹おじさんは考えた。
そして、それはボクたちが「こういうものだ」と思っている世界そのものも、同じだと考えた。

この世界のすべて、この世界そのものでさえ、無数の”もの”や”こと”に、どこまでも分解される。
それらの一つひとつのどれを取り出しても、”そのもの”ではない。
他との関わり合いの中で「そのようにある」だけだ。
”もの”や”こと”、それらの関わり合いのうち、なにかが変わることで「ありよう」は変わってしまうかもしれない。

だから、この世界に「絶対不変」というものはない。
何かを「絶対不変」だと執着することは間違いだ。
そう言い切ったんだ。

だからもし「鴉は黒い」「人間は悪をなす、人間は醜い、人間は救いようがない」という命題に苦しむ人がいたら龍樹おじさんはきっとこう言っただろうね。

「そもそも絶対不変の命題などありはしない」

4. 「移ろう世界は儚いのではなく、尊いのだ」と白い鴉は言った

「カラスは黒い」という命題をくつがえすには
何千何億の中に たった一羽
白い翼のものがいればよい!
覚悟! それはお前だ!

これは古典論理では正しい。
ベイズ理論では怪しい。
そして、龍樹の中観では、命題自体が解体されて足場を失う。

「そもそも絶対不変の命題などありはしない」

そんなことを言いだしたら、問答自体が意味をなくしてしまう。
突き詰めて言えば、すべての問答が空しいじゃないか。

そう思えてしまうかもしれない。

でも龍樹おじさんの言いたいことはそういうことじゃない。

今、君を苦しめている「命題」は、ちょっとしたことで別の何かに変わるかもしれない。
今日か明日か明後日か、ずっと遠くの未来か分からないけれど、その命題を形作っている”もの”や”こと”、あるいは関わり合いが変わって、ありようが変わるかもしれない。
あるいはどーにかこーにかしてみたら、君自身の手で「ありよう」を変えられるかもしれない。
あるいは君自身が何かの拍子で変わってしまって、その命題の「ありよう」が別のものに感じられる日が来るかもしれない。

絶対でも不変でもないというのは、そういうことだ。
だから、いま、君の目の前にある「命題」に、「黒い鴉」にとらわれて苦しまなくていい。
昔の人は言ったもんだ。泣いたカラスがもう笑うって。

つまりこういうことだ。

覚悟という白い鴉は、ただの古典論理の反証ではなく、ベイズ理論でいう仮説Hを大幅更新する観測Eでもない。

「人類は悪をなす。人類は醜い。人類は救いようがない」

散サマを固く縛り付けとらえていたその命題の鎖を、絶対でも不変でもないと示して断ち切った白い翼だったんじゃないか。

覚悟たった一人が「人類は悪をなす。人類は醜い。人類は救いようがない」という命題をひっくり返したのではなかったのだろう。
散サマが見る人類は、覚悟を見たその後だって悪をなし、醜く、救いようがなかった。
でも同時に覚悟の背中越しに見えた道程に、その「ありよう」は変われる・変えられるかもしれない、と思えたのだ。

絶対でも不変でもない世界は儚く思えるかもしれない。
でも、絶対でも不変でもないから、ボクたちは絶望の向こう側に向かって歩けるのだと思う。
絶望はそこに確かにあったとしても、しかし、それは絶対でも不変でもないのだから。

「移ろう世界は儚いのではなく、尊いのだ」

白い鴉は、そう言ったのかもしれない。

知らんけど。

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