2006/09/18

共同体は悪か?

 国、村、サークル、会社──
 ボクたちは実に多種多様な共同体を作る。
 共同体に対するスタンスも、人それぞれで。
 いや、まぁGREEで知り合った友人のblogで共同体は悪か?なんて、実に若々しい文章を見つけてしまって、考えてみたというお話。
 彼のスタンスは、彼自身の記事を読んでもらうとして。

 そもそも。
 なんで、ボクたちは『共同体』を作るのか。
 なにも難しいことはない。『ボクたちに与えられたリソースは常に有限で、しかもそれ利用するための技術に必ず長短があるから』だ。
 だからボクたちは『共同体』を作るのだ。

 『成果』を生み出すために行う活動のことを仮に『仕事』と呼ぼう。
 ここで言う『成果』は有形・無形を問わない。金銭でもいいし、何かしらの形ある価値あるものでもいいし、喜怒哀楽などの感情でもいい。

 これら『成果』を得るためには時間や資金,燃料や材料など実に多様なリソースが消費される。
 こうして記事を書いている今も『時間』やパソコンを稼動させるための『電力』などさまざまなリソースが消費されている。(願わくば、ボクの記事が『成果』と呼ぶに値すると仮定して)

 また『成果』を得るために消費されるリソースの量は、ヒトにより差がある。
 あるヒトはこの程度の記事は10分もあれば書けるかもしれない。別のあるヒトは、さらに効率よく時間を使うので5分で済むかもしれない。(ボクの場合、効率がかなり悪くて60分かそこら掛かってしまう)
 もちろん、消費されるリソースは少なければ少ない方がいい。同じだけのリソースを用意してもらえれば、効率の良いヒトが『仕事』をしたほうがより多くの、或いは良質の『成果』を生み出してくれる。
 この効率のことが『技術』である。

 となると、この程度の記事を書くために60分も掛かるボクなんか世の中に要らないって話になるわけだけども。

 ところが、同じヒトでも得ようとする『成果』によって、リソース消費の効率にはバラつきがある。ある『仕事』を効率よく行えたとしても、別の『仕事』を効率よくできるとは限らない。
 おそらくこの記事を5分で書くヒトに、社内システムの運用管理をやらせてもボクほど効率よくは『成果』を得られないだろう。いわゆる人それぞれの『強み』とか『弱み』ってヤツだ。
 だから必要とする『成果』とヒトが持つ『技術』に応じて『仕事』を割り当てる意味が出てくる。そうすることで、より効率よく『成果』を生み出すことができるからだ。

 また別の角度から見ると。
 確かに『技術』の高い人はリソースを効率よく使って『仕事』をするだろう。でも、与えられたリソースは常に有限なわけだから、幾ら効率を100%に近づけたところで得られる『成果』はリソースより多くはならない。
 だから、ある程度以上の『成果』を必要とするなら、リソースを持ち寄る意味が出てくる。そうすることで、より大きな『成果』を生み出すことができるからだ。

 つまり、多様な技術を持ったヒトたちがリソースを持ち寄れば、より効率よく大きな『成果』を得られるという寸法。
 これが『共同体』の正体である。
 とても悪とは思われない。

 『共同体』の意義を理解すれば『共同体』そのものを憎む理由は最早ない。
 むしろ憎むべきは『共同体』の意義を損なうノイズだろう。
 つまり『共同体の中に安寧を求める』姿勢であり『他者の足を引くことに専念する在り方』であり『意義を失ってもなお自ら維持し続けようとする共同体それ自身に備わった本能』だろう。これがまた困ったことに、極々当たり前に自然発生する厄介モノだ。

 だが、ボクたちは知恵ある人間である。
 上手に制していくことだってできるだろう。
 できないならば仕方ない。限られたリソースを自分の得意な『技術』でやりくりして、そこそこの『成果』に甘んじるしかない。

 そういうわけなんである。

 ──あ、そうそう。
 こういう小難しい小理屈を述べなくても、皆で一緒に何かして、成し遂げたときの一体感は無条件に気持ちいいもんだよね。うん。

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