才能とかスキルとかセンスというもの
ふっと、とりとめもないことを思いつくことがある。
で、今日もIRCチャットで友達と話をしていたときにふっと才能がどーとか、スキルがどーとか、センスがどうとか言うコトを思いついたんである。
そんなわけで、久々の更新は『才能とかスキルとかセンスというもの』について。
職業病なのか、性分なのか。
何か議論して齟齬が起きたときに、言葉の定義から入るクセがボクにはある。で、まぁこの話を思いついたのも、そんなときのことであったりして。
だから、まず定義から入ってみる。
- スキル
- リソースから成果物を生み出す能力である。その実体はセンスとナレッジが有機的にリンクしたものである。
- センス
- インプットに対するアウトプットの傾向である。その傾向は、遺伝的な要素とエクスペリエンスの集積により方向付けされる。
- エクスペリエンス
- とは、経験と体験のことである。五感による知覚や、知覚を受けてのフィードバックなどは全てエクスペリエンスである。
自動的かつ受動的にエクスペリエンスは集積されていくが、意識的かつ能動的にエクスペリエンスを集積することもできる。 - ナレッジ
- 知識のことである。形式が整えられておらず伝達が困難な暗黙的ナレッジと、形式が整えられていて伝達が容易な明示的ナレッジに分類することができる。
通常、ナレッジの取得にはエクスペリエンスが伴う。 - 成果物
- 何らかの目的に沿って形作られたアウトプットのことである。何かを見たり聞いたときの印象などは、それ自体が目的でない限りアウトプットとは言えない。
で、おそらく"才能"ってのは『遺伝的な要素』であったり『自動的かつ受動的なエクスペリエンス』の都合の良し悪しを言ってるに過ぎないのではないかと思ったんである。
遺伝的な要素が、あることに対して都合が良い性質を持っていれば畢竟、センスも都合の良い傾向を持つだろう。また『自動的かつ受動的なエクスペリエンス』が都合の良いものばかりであればセンス,ナレッジのいずれも都合の良い性質を備えるに違いない。
センスとナレッジが都合のよい性質を備えれば、それらのリンクから構成される"スキル"="リソースから成果物を生み出す能力"も高くなるのが当たり前である。
ある程度はコントロール可能ではあるけれど、どうしようもないこともある。
遺伝的な要素にいたっては、そも本人のコントロール下にない。
だから"恵まれる"とか"恵まれない"という言葉でしか評価できない。そういうものを人は"才能"と呼ぶのだろう。
だが"意識的かつ能動的なエクスペリエンス"は、完全に自らのコントロール下にあるものだ。
だからリソースが許す限り、幾らでも自分の望むエクスペリエンスを得ることができる。そういう性質のものである。
また"形式が整えられていて伝達が容易なナレッジ"は、書籍やインターネット上のコンテンツというカタチで世の中に氾濫している。あるいは師匠や教師(=生きたナレッジのライブラリ)というカタチでも存在している。
これらは"恵まれる"とか"恵まれない"というものではなく、自らの選択によるものである。
ときに"出会い"というカタチで、本人の選択によらずもたらされることもある。が、受け入れるかどうかは、やっぱり本人の選択による。
そして、これら"本人の選択"によって得られるものと"才能"とは本質的に等価だ。
だから。
ボクは『自分には才能がないから』という言い訳がキライなのだ。
才能のなさを憎み、他人の才能をうらやむ暇があったら、自分の選択によってスキルを延ばしていけばいい。或いは自分に与えられたものを活用していけばいい。
そんなことを、とりとめもなく思いついたんである。
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