ブロガーは誰がためにリンクする?
何か調べごとをしていて、Webをさまよっていると時に他の記事へのリンクと一言か二言のコメントだけ(時にはそれすらない)というブログに出会うことがある。
そういうスタイのブログについて、ふと思うところがあったので一つ。
多くのブログを読んでいると、何が面白いのかわからないブログが多数存在する。たとえば、多くのリンク先しか紹介していないブログ。気の効いたコメントもなく、ただの感想だったりする。リンク数が多ければ、ランキング上位になるかもしれないが、本人は楽しんでいるとは思えないし、結局辞書代わりに使われているに過ぎない。このようなブログは、グーグルで探せばよいことであり、存在自体が消えていくのではないか。テレビのニュースのコメンテーターとしても同じだ。この人ならではのコメントがない限り、それのみで残っていくのは難しい。
夢幻∞大のドリーミングメディア - コメンテーターになるな、クリエイターを目指せ
きっかけは、この記事である。
何が面白いのかわからない
,このようなブログは、グーグルで探せばよこと
と、実ににべもなく切って捨てている。
そんなスタイルには価値がない、とそういうことらしい。
でもはて、それは誰にとって価値がないのだろうか?
ストレートに言い換えれば、本当に誰にとっても価値がないのだろうか?
確かにリンクばかりの記事を、ただそれだけ見ても何が面白いのかわからない
という点には同意できる。
例えば、ちょっと気になる話題を扱ったブログ記事から、他の人がどう考えてるか知りたくてトラックバックを辿っているときに、ただリンクを並べてるだけという記事に出くわしたりするとムッと来たりもする。
でも、次のようなケースではそれなりに価値なり意味があるんではなかろうか?
- 不特定多数/知り合い/友人と面白い記事を共有したい (ソーシャルブックマーク的な使い方)
- 備忘録代わりにリンクをWebに残しておきたい (Google ノートブック的な使い方)
それぞれ、別にブログじゃなくてもできる。が、そこは本質的な問題ではない。
大事なのは『誰にとって』意味があり、価値があるかということである。
一部の例外はあるにせよ一義的には『自分のため』だ。
ソーシャルブックマーク的だろうが、Google ノートブック的だろうが、それが自分にとって価値のあるものなら他人さまがとやかくいうコトではない。(やや極論ぎみではあるけれど)
- みんなに紹介したい記事があった → ブログにリンクをはっておこう
- 後で見返すかもしんないから、URLとコメント残しとこう → ブログなら手軽だよね
そんなノリ。
それが、たまたま他人さまの役に立つこともある。本来、それでいい。
気楽なもんである。
ついでに言うと、ブログ草創期の頃から続くrebecca's pocketのレベッカ・ブラッドは、その著書 ウェブログ・ハンドブックの中で、こんなタイプ(リンクが中心のブログ)を、こう紹介している。
フィルタ(FILTERS):古典的なウェブログというものを考える場合,私は短文からなる日記や一連の自分語りや短いコラムは想定しない。私が古典的なウェブログだと考えるのは,リンクの回りを視覚で囲んだ,根っからのウェブサーファーによって運営される古いタイプのサイトで,その作成者個人に関する情報はあってもなくても全く構わない。これらのウェブログには,共通するところが1つある。ソレはリンクが重要であるという点だ。編集者が長い文章を書こうがそうでなかろうが,フィルタの編集者は読者にウェブの案内をしたいのだ。フィルタの編集者には簡潔に書こうと努力する者もいれば,完璧さを求めて努力する者もいる。しかし,痛烈な批判を読むためにリンクを利用する人でさえ,何よりドアの外の世界に集中しているのだ。これらのサイトは,見た目にはブログやノートブックと似ているかもしれないが,そのウェブロガーの個性をその外側から浮き彫りにしている。フィルタスタイルのウェブログ上にサイト作者の自我が現れるとすれば,それはより大きい世界との関係を通して間接的に明らかになるのだ。
ウェブログ・ハンドブック 第1章 ウェブログって何?より引用
思いのほか古くから根強くあるスタイルだ、ってことなんである。
ついでついでに付け加える。
どの記事をリンクするかという選択でさえ蓄積すれば個性やセンスが現れるもんだ、とボクは思う。それ自体がこの人ならではのコメント
に勝るとも劣らない魅力になったっていいと思うけれど、どうだろうか?
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