子供のために親ができること
親が子供にできることなんて、とても限られている。まして俄かに父親になったボクなんかではなおさら。
ことさら自分を卑下するつもりでもなく、そういう素直な認識がある。あればこそ逆に、自分が息子のためにできることはなるたけやってやりたいとも思う。(で、その四苦八苦の結果がこんな反省や自己嫌悪になったりしているわけだけども)
だから。
はてな匿名ダイアリー - 妻が臨月だより引用
- :名前が常識的に普通じゃない子供&親とは付き合わない。(当て字とか…)
- :子供と親の年齢が近い(あきらかに10代で産んでいる)人たちとは付き合わない。
- :子供を注意しない(しつけない)親とは付き合わない。
こういうのを見ると、共感半分・反感半分になってしまう。
これから生まれてくる我が子のために、真剣に考え抜いたんだろうなぁとは思う。だから共感半分。
でも、きっとこういう決意はムダに終わるばかりか、子供のためにかえってよくないだろうとも思う。だから反感半分。
ムダに終わる要因はすでに小飼弾氏が404 Blog Not Found - 親に関する最もありがちな2つの誤解で、親というものに対する二つの誤解(と絶対原則)として挙げている通り。引用すると長いので、ポイントだけ抜粋すると──
- 誤解その1: 親は子の環境に対して100%の責任と権利を有する (子は成長にしたがって親の手の届く範囲からどんどん出て行く)
- 誤解その2: 育つのは子である (育つのは親も一緒)
- 絶対原則: 子は別人 (親の分身じゃない, 親の思うようになんか育たない)
実にアタリマエなのだけど、一生懸命に親をやろうとすればするほど見失いやすい。余裕がなくなると回りが見えなくなる、というところだろうか。
それでも子供のためには必要なのだ、と貫いたとしよう。
そのためには子供を無菌室状態に置き、親は絶対者にならねばならず、しかも子には自らの分身(しかもおそらくは理想の)であることを押し付けなければならない。
可能か不可能かは横に置いたとして。果たして、それは親子を幸せにするだろうか?
ボクは、そうは思わない。
いずれ無菌室を出なくちゃいけない。親を乗り越えていかなくちゃいけない。自らの意思で自分自身の進む道を選ばなくちゃいけない。親はいつまでも親ではいられず、子はいつまでも子ではいられないのだから。
無菌室で、絶対者たる親に、親の分身であることを強要されて育った子供は、その時に必要な力──生き抜く力、乗り越える力、選択する力を身につけられるだろうか? それを身につけ磨くための環境も動機も最初から奪われているのに。
ボクは、そう思うんである。
2 コメント:
まぁ、なんだ。
とりあえず、他人から読みやすく、自分が成人してからでも堂々と名乗れる名前を付けてやってくれ。
最近は変な名前が多すぎる。
光宙でピカチュウとか、もうね……。
十兵と書いてクリストファー, 黄熊と書いてぷう, 天使と書いてエルフ(タイプ別のDQN名前より抜粋)──もう、なんでもアリな世の中になってきているようですよ?
まぁ、嫁さんとの力関係もあるんで、そうそう変な名前をつけることはないと思います。はい。──っつーか、そっち系の名前は趣味じゃないし。(おっと、昔の話は持ち出すなよ?)
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