『国家の品格』と論理と情緒とわたし その1
巷で話題の国家の品格(著: 藤原正彦)を読んだんである。
読むに至ったきっかけは、カバー折込のアオリに尽きる。
日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論。
国家の品格、カバー折り返しの紹介文
実に耳障りのいいお言葉で、控えめに言っても好きになれない。
ところがこれが、世間では偉く受けていて職場(ボクの職場は、いわゆるシステム部門ってヤツで世間でのイメージは情緒よりも精巧な論理が尊ばれることになっている)でさえ見かけることがある。
そこで、ボクとして文句をつけたくて仕方ないわけだけども、流石に読みもしないでアレコレ言うのは失礼だし、あまりに説得力もないと考えた次第。
要するに、難癖をつけるために読んだようなもので、以下の文章はその点を差し引いて読んで頂ければ幸いである。
著者の主張を要約すると、次のようなものになる。
- 論理と情緒は、車の両輪のようなもので、両方が必要不可欠なものである。
- 日本人は西洋に倣って論理、論理と追いかけてきた。
その結果、元より美徳として持っていた情緒の文化を忘れ、世の中は悪くなった - だいたいそも、世間では論理なるものを過剰に評価しすぎである。
論理には限界があり、最も重要なことは論理では説明できず、論理の出発点は論理によって定めることができず、世の中のことは長い論理では説明できない。 - 自由・平等・民主主義は本質的にフィクションでもある。
なぜならば本質的に不完全であるところの論理性に寄りかかるものだからである。 - ゆえに、日本人は今こそ優れた情緒の文化=武士道に立ち返り、国家の品格を取り戻すべきである。
そのためには世界から孤立しても構わない。ひと時は孤立するかもしれないが、いずれ世界中が品格ある国家の姿に気づき、自ずから理解されるであろう。
1に関しては頷ける。同感である。
論理とは乾いたものであり、破綻なく汲み上げられた論理は美しいが、いささか潤いに欠ける。ここで言う潤いとはつまり、精密機械における機械油のようなものである。
人間は論理を操るが、感情にしばしば動かされる生き物でもある。そして感情は本質的には論理によって制御することができない。全くの別物だからだ。
豊かに成熟した情緒は、感情を柔らかく受け止め、その在り様を整える。
つまり潤いであり、機械油のようなものである。
その次の2あたりから、ちょっと怪しい感じがしてくる。
──と、言ったところで記事が大分長くなっていることに気がついた。
そんなわけで、続きは次の記事(『国家の品格』と論理と情緒とわたし その2)へ引き継ぐことにして、一旦、記事を閉じる。
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