2006/09/21

『国家の品格』と論理と情緒とわたし その2

 前の記事(『国家の品格』と論理と情緒とわたし その1)で、の国家の品格(著: 藤原正彦)という本の概要を紹介し、論理と情緒は、車の両輪のようなもので、両方が必要不可欠なものである。という主張までは同意できることをお話した。
 ここから先は、残りの内容にどうして同意できないのか、というお話をしたい。

1. 論理を重んじることが情緒を滅ぼすことにはならない

 前の記事で挙げた日本人は西洋に倣って論理、論理と追いかけてきた。に対する異論である。

 確かに、明治維新から後、欧米の背中を追いかけてきたのは事実である。
 その過程で欧米の習慣を積極的に取り入れてきたし『論理を重んずる』姿勢があったこと,その影響を受けて何らかの変化があったであろうことは頷ける。
 だが、論理を重んずることが情緒を忘れることとイコールなのだろうか?
 もしそうなら、古代ギリシアとその後継たるローマ帝国から連綿と論理を練り続けてきたヨーロッパの知識人は情緒を欠いた人々ということになる。
 彼らの情緒は未発達で、野蛮で、お話にならない──と言うことになるだろうか?

 イギリスはどうだろう?
 彼らには世界に名だたるユーモアと腹芸の伝統がある。ジェントルマンの文化も根強い。紅茶を愛し、田園を愛する感受性もある。だが、彼らが論理を重んじないかといえば、とてもそうだとは思えない。
 ローマの後継を自称するフランスはどうか?
 美学という点において、世界で彼らほど洗練された国を探すことは難しいだろう。美食,美術,ファッション,音楽。どれも、高い情緒を要求するだろう。  確かに、日本の情緒の在り方とは異なる。だが、少なくとも論理を重んずることが情緒を軽んじることとイコールでないとは言えるだろう。

2. 世間では論理は重んじられていない

 次いでだいたいそも、世間では論理なるものを過剰に評価しすぎである。ということについて。著者は併せて、様々な問題を挙げ、論理の無力も主張している。だから、論理ばかりを重んじていてはいけないのだ──という帰着である。

 むろん論理に限界はない、とは言わない。
 言わないが、それにしても著者の論には頷けないことが多い。
 箇条書きにして挙げる。

  • 著者が言うほど論理は世間で重んじられていない
    上司の感覚や思いつきに振り回される部下,部下の要領を得ない(非論理的な)報告にウンザリする上司。どちらも世間では日常的に見聞きできる光景である。
    これらは論理が重んじられていないために起こる現象ではないだろうか?
  • 長い論理は成立するし、有用である
    長い論理が途中で破綻するのは間にグレイ(1か0か、確定できない)の要素が積み重なっていくからである,また人は短い論理をこそ好む──と著者は言う。確かに、それは一面正しい。
    だが、不確実であるならば実証と検証をすればいい。また、結果として結論が間違いだったとしても、そこに至った道のりは残る。それを足場にして、次のステップが踏み出され論理は完成していくものだ。
  • 論理の出発点は事実か仮定である
    現実の社会と向き合う中で、論理の出発点は論理によっては定められないという。情緒によって選択する仮説なのだ──と著者はいう。
    そんなことはない。
    論理の出発点は、常に事実か仮定である。
    もちろん、仮定に基づいて組み立てられた論理は、その仮定が正しいことが証明されなければ正しい論理とは言えない。
    情緒によって選択された出発点は、あえて言えば仮定に当たるだろうか。しかし、それも論理によって真であることが証明されなければならない。

 この本の中では、実に様々な世の中の問題が挙げられていて、たいていは論理によって引き起こされたのだと主張されている。だが、ボクには、そこで挙げられている『論理』はコドモの屁理屈以下のもののように見える。

 確かにボクも、しばしばコドモの屁理屈以下のものを振りかざしてしまうことがある。追い詰められたときに顕著でもある。
 でも、それは思い込みや飛躍やすり替え,実証や検証の不在など、論理とは相反するものがたっぷりと含まれた『非論理』なのだ。これと『論理』を一緒くたにして語るのは明らかに正しくない。
 論理を巧みに見せかけ、うかうかしていると正しいことだと思い込まされるような非論理,あるいは単に見苦しいだけの自己正当化の非論理。
 確かに、そんなものを振りかざされるよりは、美しく成熟した情緒によって語られた方がはるかにマシだろう。
 だが──それでは問題は解決しないのだ。

 著者は問題解決に対して考察が不十分か、経験が少ないのではないか──ボクにはそのように見える。
 問題あるいは課題を明確にし、事実に基づいて問題に関する仮説を立て、方策を検討し、一つ一つ実行していく。間に情緒の挟まる隙は少ない。(もちろん、人間を相手にする場合には、たっぷりと情緒が必要とされる場面もある)
 まさに論理のカタマリであると言っていい。
 トヨタのカイゼンに始まる『なぜなぜ分析』などは、著者がまさしく否定した『長い論理』を破綻無く組み立てることができる道具である。しかも、高度な数学者ならぬ現場の担当者たちをして、それを可能にさせるための道具である。
 そして、その成果はトヨタの底力となって本質的な問題解決へと結びついている。
 論理は無力だろうか? 長い論理は成立しないだろうか?

 むしろ、ボクは論理不在の問題解決こそが先送り,責任転嫁,状況の悪化,再発の繰り返しを招いていると思う。
 また、それは論理の価値が十分に評価されず、そのために論理力を育てる努力が怠られてきたことの証左ではないだろうか。

 と言うところで、程よい長さになった。
 続きはき次の記事(『国家の品格』と論理と情緒とわたし その3)で改めて。

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