世間様というものについて考えてみる
「弟がゲイなんだ」
なんて前触れもなく笑顔で。
ある友人の話である。曰く、自慢の弟さんなんだそうだ。
なるほど弟の話をするときの屈託のなさは、それが嘘じゃなくて本音なんだと納得させてくれる。
けども、流石にご両親に知れれば確執がありそうだってことで、その友人のことは秘して話を続ける。その関係で多少の脚色はあるんで、そのつもりで一つ。
さてもさても。
そのとき、ボクの反応はっていうと。これが、さほど面白くもない。
「なるほど──うーん、ボクが同じ立場だったらどうだろうなぁ」
そう呟いて考え込んだわけである。
民主主義で自由経済で宗教的な制約も(明示的な形では)ゆるやかな日本のことだ。
彼もしくは彼女が同性愛者だからといって、それがために差別されたり文句をつけられる言われはあるまい。それがために犯罪に手を染めてみたり、法に触れないまでも何か周囲に具体的な迷惑を振りまくわけでない限りは。
もちろん子孫を残せないって点では男女のカップルにはない悩みがあるが──現代日本で、それがどうなんだという気もする。もちろん当人にとっては深刻な問題であるだろうけども、それが他人の意識と行動をネガティブな方向へ向ける理由にはならない。
おそらく、ボク自身も1:1の付き合いになったときに、相手を理解することはできないまでも受け入れることはできると思う。
むしろ全部が全部、相手を理解できるって状態は幻想かもう一人の自分を見てるようなもんで、端的に言い切ってしまえば正常な状態とも思えないし。そういう意味で他の人と比べて特別とはいえない。
そこまでは素直に、そう思えるし言える。
多分、社会に出る直前のボクならば言えたのだ。
「あぁ、そう。変わった弟さんだねぇ。それは自慢しちゃうかも」
──って。屈託なく素直に。
でも今は言えない。言おうとしてもワンテンポずれてしまう。
社会に出て少しばかりヒネてしまったボクはまず思う。
『会社の人がそれを知ったら、どう思うだろうか』
『これから仮に結婚するとして、結婚相手はともかくその両親・親戚に紹介できるだろうか』
多分、これは身内がちょっと変わった宗教の人であっても同じだろう。もしかしたらAIDSのように偏見をもたれている病気であってもそうかもしれない。
要するに。
いわゆる『世間様』ってヤツが気になるのだ。もっと直裁に言えば怖いのだ。
とまぁ、そんなコトに気づかされて。
少しばかり悔しくて考えてしまったわけなんである。
だいたい『世間様』ってのはなんなんだ? そんなわけのわからんものに振り回されるなんて悔しいじゃないか。
で。
『個人を特定できない自分を取り囲む他人に対するイメージ』
これが結論。
要するに『世間様』なんて実体は存在しない。人によって微妙に異なるメタな概念に過ぎない。それも自分で自分の中に作り出した。
それそのものは有用なんだと思う。
特に『絶対なる神と戒律』を持たないボクたち日本人にとっては。社会との関わり方を規定する何か、他人と調和する術を教える自分のなかの他人。
──そういうものを持たないと社会の中でやっていきにくい。感情のヒダまでは法律はフォローしてくれないから。でもそれ以外に共通のルールがないから。
でも、やっぱりそれに実体はないのだ。
意地になって無視する必要はないけれど、ボクを振り回させるような大層なものじゃないはずだ。所詮、社会の中で軋轢を避けるための概念にすぎないのだから。
時に沿い、時に距離を置き。
上手に間合いを保って付き合っていきたいもんである。
沿うにしろ、従うにしろ。それは外から押し付けられるものではなく自分で決断することなのだと肝に銘じて。
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