2008/08/21

人は物語をする生き物である

 唐突な切り出しであるが、人は物語をする生き物なんだと言うお話。
 いや、まぁ、きっかけはCreator's Networkというサイトが提供してるIRCチャンネル#もの書きの2005/03/20 02:00頃のログからである。

[ENO] そもそも「物語」ってのは、そのための、楽しむための道具だと俺は思うのよ
[nmasaki] 成る程なぁ。。。
[ENO] 無くても生きていけるし、困らない
[ENO] でも、あると楽しい
[nmasaki] 人生をプラスにする為の道具。。。
[ENO] 通販番組の「アイディア台所用品」。くっつかない包丁みたいなものでね
[ENO] 「あれば便利!」だけど「無くても困らない」
[SiIde-Zau] 妄想禁止、とか言われると、椎出は死んじゃうかもしれない(笑)<なくても生きていける
[ENO] 要するに、非常持ち出し袋の中に入れるものとしては、優先順位はかなり低い<小説

 特にこの辺り。
 読んでてふっと違和感というか、あ、違うなっと思ったんである。
 ボクの物語に対するスタンスと違うな、という感覚。それが面白くてついつい。

 人間は物語なしでは生きていけない。モノやコトを『物語』しないと上手く飲み込ず、安心できない。
 そのことの善し悪しは分からないけれど、そういう生き物なのだ。

 殺人犯には必ずそれなりの動機があるに違いない──それが世の中の当たり前。
 天変地異が起こるのはやはり世界の終わりが近いから──ほら使い古された言い回し。
 悪いことばかり続くのは、日頃の行いが悪いからかもしれない──そんな呟き。
 世の中に悪いことが耐えなければ陰謀だ──なんてパラノイアティック。
 私とあなたはきっと運命の赤い糸で結ばれているから──そんなロマンティック。

 ちょっと極端な例えばかりだったけれど。目の前の出来事に対して○○だから●●だ、なんて、ついつい日常生活でもやってるに違いない。

 こういう作用を『物語化』と呼ぼう。(えらそうに言ったけど、元はStellaさんから借りてきた言葉である。悪しからず)

 『物語化』する能力は誰でも持っているけれど、その発達には大きな差がある。それはきっと社会や個人の持つ『余暇』や『経験』や『知識』なんかが大きく作用している。
 そして、高度に育った『物語化』する機能がフィクション/ノンフィクション問わず『物語』に商品価値を与えるのだと、ボクはそう思う。
 それは送り手側だけの機能ではなくて、受けて側にも要求される能力だ。なぜならば『物語化』する能力がなければ、それを読み取ることができないから。

 この『物語化』する機能、頭の良い人にしばしば誘導されて上手に利用されちゃったりすることもある。

 曰く、わが国は神の国である。
 曰く、彼の宗教の徒はすべからくわが国を狙うテロリストである。
 曰く、我が民族は最も優良であり劣等民族を支配する義務がある。
 曰く、赤い勢力が彼の国を支配すればドミノ式に赤い国が増えていく。
 曰く、曰く、曰く──

 集団で共有された『物語』の力は空恐ろしい力で人々に同調を強要する。また頭の良い人が誘導する物語には、心のどこかがくすぐったくなるような甘い甘い蜜が混ぜ込まれてもして。
 だから人は時に『物語』に乗せられて、信じられないほど愚かしいことをしたりもする。
 よくよく気をつけなくっちゃいけない。『物語』は事実に沿うこともできるけれど、事実を遠く離れ命綱もパラシュートもなく空を飛ぶことがあるんだから。

 まぁ、こんなことをつらつらと思ったんである。
 誰でも『物語化』する機能は持っている。でも、その発達は一様ではない。
 くれぐれも他人さまの『物語』を生きるようなことがないよう、よくよく気をつけたいもんである。

 それから願わくば。
 公園の遊歩道で前から歩いてくる子供達を見て、微笑ましい『物語』を思い浮かべられるようになりたい。サフイウヒトニワタシハナリタイ、んである。

追記

 このエントリは、ボクがまだマイぷれすでblogを書いていた頃の記事の再録である。ちょっとしたきっかけで、この記事を探したら、こっちに移動するのを忘れていたのに気づいた次第。
 読み直してみて、我が記事ながら面白くて、折角なので新記事として仕立て直ししてみた次第。言ってる内容は何も変わっていないけれど、多少、表現を直したり誤字を修正したりしてある。

 ちなみに、この記事に関しては『商品・製品としての物語』と『認知システムとしての物語』が混同されている、という指摘を頂いている。
 なるほど、と思いながらも、この記事でも特に訂正は行っていない。そのあたり、承知おきのうえ読んで頂けると幸いである。

関連URL

2 コメント:

S.T. さんのコメント...

既出かもしれないが。

『商品・製品としての物語』と『認知システムとしての物語』

ともに『言語野の記号によって構成され時間によって構築された意味集合』である点では共通している。

カント曰く時間と空間は感性の認識形式であると。

時間と空間によって立体的に形成された意味集合から我々は現象を想起することができる、従って経験を構築することができる。



人間は、特に幼児期に傾向が強いが、学習し習得する行為に快感を得ることができる種族である。無論、それは褒められるという社会環境からの反応を期待してのことであるが、これは成長するに従って複雑化が可能であり、複雑化の過程で経験を以て学習の基盤とすることになる。従って物語化することは認知過程でもあるが経験の構築過程でもあり、同時に物語の獲得は経験の獲得ともいえる。体験によって得る経験と物語の獲得によって得る経験は異なるものであるが、本質的には同義である。


しかしながら問題は、他者に物語化された物語を獲得した場合、それは体験と異なり事実と真実の関係はア・ポステリオリな一貫性を欠き、従って誤解によって構築されると言っても過言では無い点である。これを比定し得るのはア・プリオリな、或いは形而上の一般性と一貫性であり、恐らくこれのみである。

我々が注意しなければならないのは、物語を獲得した場合、自らの経験を構築するに於いて、自らの経験と比定するのみでなく、悟性による概念の獲得の際に、理性に於いて一般性との比定を行うことと、これを正しく比定し得るだけの概念的な幅と複雑さを自ら有しているかを自問し、これを練磨することであるのではなかろうか。


このために数学は人間構築に大事であり重要であるのではないか、なんて私は考えているのであったりします。

Sakurai.Catshop さんのコメント...

物語とはコトバ(記号を含む)と時間の概念によって再構築された『意味の集まり』(認識?)である──とか、勝手に言い換えてみましたが。

なるほど『物語化』によってヒトは『経験』を他者に受け渡し、また受け取るコトができるってのは面白い着眼です。また、体験や知覚, 思考は『物語化』することによって『経験』として定着するとおっしゃってるようにも見えますが、それも面白い。

ボクたちは学習, あるいは他者とのコミュニケーションなど諸々の人間としての活動の中で、無数の他者の『物語』を受け容れ、また自らの『物語』を絶え間なく発信していくのだと思います。つまりボクたちは(広い意味での)コミュニケーションを通じて『物語』を交換し続ける。それは『経験』を交換しているのとよく似た働きをボクたちにもたらすように思えます。

ところが『物語化』の過程において、言語, 写真, 映像, 音楽などどんな手段によっても、表現されない『情報』はあまりにも多い──つまり、本質的に不完全な『経験』なんだと思います。実際のところボクたちが自らの五感を通じて『体験』し、脳の中で処理している情報のほとんどは暗黙的で『物語化』されない。そもそも、それ以前の『経験』のフィードバックによって、容易に変質されるものであり、おそらくそれは常態化している。
それをいかに補うかといえば、自分自身の体験や知覚, 思考(の記憶)から似たものを探し出して引っ張り出してくるわけですよね。
ところが、それらが同じだなんてコトはありえない。
同じとき、同じ場所に居て、同じことをコトをした/されたとしても、ヒトはみな異なるものを知覚し、思考し、記憶する。それは生理的な相違によるものでしょうし、その瞬間までに獲得してきた『経験』の相違ということもあるでしょう。あるいは、もっと偶発的な、ほんの僅かな立ち位置の違いによる光の加減であったりするようなことも少なくないと思います。

このあたりは、ご指摘の事柄を、違ったコトバで言い換えただけだとは思いますが。

従って『物語』の交換は『経験』の交換とは、やはり異なる。よく似ているが異なるのだと理解した方がすっきりするように思えます。

とはいえ『経験』を直接的に交換し、共有し、あるいは比較することで精度を高めることは不可能であり、ボクたちは『物語』を交換し、共有し、比較するしかありません。
ただ翻ってみれば『物語』を持たない他の生き物には、それすらできないわけで。むしろボクたちにそれができるというのは奇跡と解釈するべきかもしれません。

いずれにせよボクたちは『物語』の不完全さを自覚し、検証可能なモノサシを当てて計りなおすことが必要なんだと思います。でなければ、あまりに不完全すぎ、不安すぎる。
そのモノサシの中でも、とりわけ数学が重要であるという結論は、なかなか反論しづらいところであります。惜しむらくはボクは数学ってヤツが極めて苦手なクチでありまして、ここは一つ悔し紛れに、数学だけでは必要十分ではないという含みを持たせて、稿を結びたい次第であります。