情報が流れるネットワーク、というモデル。そして、ささやかな予感。
元ネタはPOLAR BEAR BLOG - ウェブより強いタウンページというブログ記事から。
この記事ではウェブには載らない情報が想像以上に多いことを指摘
した海外ブログの記事を紹介し、イエローページ(日本で言えばタウンページ, 要するに電話帳)の事例を引用した上で次のように考察している。
あと10年、20年ぐらい経てば、こういったハイパーローカルな情報も全てオンライン化され、ブラウザがあれば全て事足りる時代になるのでしょうか。その可能性も高いとは思いますが、最近は何というか、情報が流れるレイヤーにも目を向けなければならないように感じます。例えば首相が辞任したという情報と、近所に腕の良い自転車屋がいるという情報は、明らかに全く異なるレイヤーで伝わるものでしょう(お隣さんとのお喋りで初めて首相辞任を知る、テレビ番組で近所のお店が紹介されるのを観る、といったケースももちろんあるでしょうが)。「その経路にウェブか含まれているかどうか」は副次的な問題で、ある情報が伝わる際にどんな人々が関わるか、どう関わるかといった点に注意しなければならないのでしょう。でなければ、何十年経っても「やっぱりローカル情報はタウンページ」という状況は変わっていかないように思います。
ここで言う情報が流れるレイヤー
ってコトバ。これが最初、飲み込めなくて。
これを情報が流れるネットワークと言い換えてみたところで、この記事を思いついた次第。
ここで言うネットワークというのは節点(ノード)と経路(リンク又はエッジ)からなり、流れ(フロー)があるもの
(Wikipedia - ネットワーク)で、広い意味での(媒体や形態を問わない)『情報』が流れていく構造を指す。
ノードは、情報を発信/中継するヒトだ。(本当はモノも含めたいな、と思ったのだけれどハナシの見通しが悪くなるので外した)
経路は、ヒトからヒトへ情報が流れていく繋がりを表すことにする。実体は、インターネットでもマスメディアでも、職場の同僚やご近所さんなどの人間関係であってもいい。もちろん、タウンページでもいい。
おそらくネットワークのトポロジ(ネットワークのカタチ)は、それぞれ相当に異なるだろう。それ自体の考察も面白そうだけれど、この記事ではとりあえず横に置く。
ほとんどの『ヒト』(つまりボクたち)は、物心つくかつかないかの頃から、パブリック/プライベートを問わず複数のネットワークに所属するのが当り前になっている。ご近所, 職場/学校, サークル活動, SNS, Webの仲間──その他、その他。
だから、ボクらという各ノードには、それぞれのネットワークから様々な情報が流れ込んでくることになる。それらは各ネットワークの規模や特性にフィルタされ、時には加工されているだろう。
あるネットワークから流れてくる情報は優先的に処理し、別のネットワークから流れてくる情報は多くを破棄するようなコトもあるだろう。別のネットワークから流れてきた情報を、また別のネットワークに転送することもある。
ネットワークの中には、当然ながらWebをベースとしたネットワークもある。それらは、だんだん広がりも深みも増してきている。Web 2.0というコトバが作られたのと時期を同じくして加速度がついてきたようだ。
そういうWeb上のネットワークに、自覚的かどうかを問わず、重心が寄せているヒトも増えてきた。例えば、ボクはそうだ。おそらく、POLAR BEAR BLOGのakihitoさんも、度合いがどのくらいかは分からないが傾向としては似ている。
重心をWeb側に寄せれば寄せるほど、一般的にはリアルの側のネットワークとの繋がりは弱くなっていく。或いは、ネットワークの密度が薄くなっていく。なぜなら、ネットワークの維持には相応のコストが掛るもので、たいていの個人が自由にできるリソースは高が知れているからだ。
Web上のネットワークには、誰かが、わざわざ手間を掛けて転写/複写しなければリアルの情報は載ってこない。当り前といえば当り前のハナシ。
そして、多くのローカルな情報はWebには載ってこない。多くは『狭いネットワークでしか通用しない』ためにWebへの複写の手間に見合わなかったり、あるいは情報源となるノードそれ自体がWebとの接点を持たない(例えば角の靴屋のオヤジさんとか)コトが多かったからだ。
ただし、広く共有されることで価値を増すような情報は直ちにWebへ転写/複写されていく。この過程を経て、かつてローカルだった情報はローカルではなくなる。
このトレンドが数年は続いていて、そういう種類の情報に関してはWeb上のネットワーク群だけでも充足できる──あるいはそう思える状態になりつつある。
このような構造の中で、ローカルな情報はWeb上のネットワークに重心を置くヒトたちには、最初からないような錯覚が起こりやすくなっていたのではないか。だからこそ『ローカルな情報がウェブには載っていない』という世間では当り前のコトが、Web側に重心を片寄せたボクたちには意外に映るのじゃないか。
ただ、これは過渡期的な状態だろうという予感もある。
- これからGoogle Street View、あるいはGoogle Book Search Library Project的な『お節介でパワフルな誰かが、強烈な使命感と行動力でゴリゴリと、リアルのWebへの転写/複写を進めていく』という現象が進んでいくのだろうという、確度の高い予測。
- そして、そういった活動が不承不承ながらなし崩し的にでも、社会に受け容れられてしまうだろうという、直感的な予想。
つまり、これら確度の高い予測と、直感的な予想の組み合わせ。
もし二つともが当たれば、いずれ、ボクたちが『リアル』と呼ぶ世界が、そっくりそのままWeb上に立ち上がる日がやってくるかもしれない。そんな妄想めいた予感がボクの中に生まれてしまったんである。
もし予感が的中したら、少なくとも最初のうちはボクは楽しめるだろう。でも、それから先は分からない。
一つだけいえることは、今の時点でWebに重心を持っていないオールドタイプと、Webにすっかり重心を移してしまったニュータイプの間に、相当な摩擦と軋轢と格差が生まれるだろうなぁ、というぼんやりした印象だけだ。
余談。
元ネタの記事で言及されている別に示し合わせたわけでもないのに、同じようなタイミングで(あくまでも僕にとって、だけど)目の前に現れてきた
ってのは、ユンギアン的に言えばシンクロニシティ(共時性)ってヤツだよね。
ボクもよくある。まぁ、ボクのシンクロニシティの理解は、それが『起こる』じゃなくて起こった事象に『シンクロニシティという意味を与える』って立場なんだけど。