2009/06/16

「人を褒めろ」と言ったのは梅田さん自身だ —— ITmediaの『梅田望夫を聞く』を巡る雑感。

ここ一, 二週間ほど、IT戦士こと岡田有花さんによる梅田望夫さんへのインタビューがWeb界隈(と言ってもボクの観測範囲でのことだけど)を騒がしていた。そろそろ落ち着きを見せてきたところだろうか。

そのインタビューと、関連して幾つかのblog記事を読んで思うところがあったのでボクも一筆奏上——じゃなかった、つらつら雑感。

まず火種になったインタビュー記事は二回に分けてITmediaに掲載されたもので:

インタビュアーの岡田さんの話の聞き出し/書き起こし方が上手いのか、それとも梅田さんの中で何か心境の変化があったのか。胸襟をくつろげて話しているような雰囲気と、それからこれまで自らのblogを含む公の場では積極的には立たなかった視座からWebを語る様子がインタビュー記事としては秀逸なものになっていると思う。その点で、岡田さんという人はスゴいな、と素直に感じ入るころがあった。

ただ、感じ入る以上に違和感があった。ドキドキしないのだ。

これまで梅田さんが、特にWebについて語ってきたコトのほとんどは、ボクの胸をドキドキさせてくれた。とりわけWeb進化論の中で示した『新時代のコンピュータメーカ』, 『情報発電所』として語られたGoogleの姿(これは今、クラウドコンピューティングという新しいコンピューティングのあり方として大きなうねりをもたらしている), あるいは『Webが個人をエンパワーする』という増幅装置としてのWebとの向き合い方。この二つは、今もボクをある方向に向かって突き動かす、得体の知れない光と熱の源として胸の奥の深いところに在り続けている。

それなのに今回のインタビューには、何一つドキドキするところがなかった。

なんでだろう、としきりに首をひねった。ひねったところに404 Blog Not Found:梅田望夫は「残念」なただ一つの理由を読んで、すとんと腑に落ちる思いがした。つまり、このインタビュー(特に前編)で梅田さんは褒めず、現在進行形の新たなビジョンを語ってもいないのだ。

梅田さんが惚れ惚れと熱っぽく語るビジョンに、ボクは始終ドキドキしていたのだ。

直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japan

ネット空間で特に顕著だが、日本人は人を褒めない。昨日もLingrイベントで言ったけど、もっと褒めろよ。心の中でいいなと思ったら口に出せ。誰だって、いくつになったって、褒められれば嬉しい。そういう小さなことの積み重ねで、世の中はつまらなくもなり楽しくもなる。「人を褒める」というのは「ある対象の良いところを探す能力」と密接に関係する。「ある対象の良いところを探す能力」というのは、人生を生きていくうえでとても大切なことだ。「ある対象の悪いところを探す能力」を持った人が、日本社会では幅を利かせすぎている。それで知らず知らずのうちに、影響を受けた若い人たちの思考回路がネガティブになる。自己評価が低くなる。「好きなことをして生きていける」なんて思っちゃいけないんだとか自己規制している。それがいけない。自己評価が低いのがいちばんいけない。

小飼さんはこの下りを引いて、梅田さんは自身のコトバを裏切っている、と言い切った。あぁ、なるほどな、と。ボクはそれですっと腑に落ちた。

その後、アンカテの最高クラスの「荒らし」としての梅田望夫を読んで、今回のスタンスを「愚痴」,「緩み」と言い切った上で、むしろ彼の発言がこうまで許されず、許されないばかりか上から下までそれぞれ異なる言説/反応を引き出してしまうところに得意さを見いだしたところを面白く感じたり。また梅田望夫と Web 2.0 - raurublock on Hatenaを読んで梅田さんがWebに期待したところがそこか、と妙に納得したりした。ただ、小飼さんの記事で腑に落ちた以上のものはなかった。

その後、

棋聖戦第一局の観戦記を書きに行ってきます。 - My Life Between Silicon Valley and Japan

IT Mediaでのインタビュー記事がたいへんお騒がせしていて、それについて何も反応できておらず、すみません。頭と心の整理がついたところで、いずれ何かここに書きます。

ただそれまでの間は、このエントリーをお読みいただくのが、僕の気持ちにいちばん近いです。どうしてこれほど他者のことがわかり、それを正確な文章に移しかえることができるのだろう、と正直なところ思ったほどでした。むろん僕のことを過分に褒めてくださっている部分は、飛ばして読んでください(そういうことのご案内が主旨ではないので)。

その後、梅田望夫進化論 - Zopeジャンキー日記が、棋聖戦第一局の観戦記を書きに行ってきます。 - My Life Between Silicon Valley and Japanの中で名指しされ:

最初に結論を書くと、「梅田望夫はだんだん自然体になっている」んだと私は思う。いまの梅田さんのほうが、おそらく本来の梅田さんの姿だ。

ウェブ進化論』のときの梅田さんは、主にネット側(「あちら側」)に立って、そこからリアル側(「こちら側」)を「啓蒙」する立場だった。

当時の日本では、いまよりもネットに対する疑いやマイナスイメージがまだ強かったし、グーグルの圧倒的な強さやその意味なども、一般レベルではそれほど知られていなかった。この状況で、『ウェブ進化論』はグーグルをはじめとするウェブの新技術、それが切りひらく新しい社会を一般に知らしめるという役割があった。だからここでの梅田さんは、ネットに対して「戦略的にポジティブ」なスタンスを取っていた。

もともと梅田さんは、ネットに完全肯定な立場ではなかったと思うし、特に日本のネットの言説やカルチャーを擁護しているのはたぶん見たことがない。梅田さんのキャリア的にも、志向的にも、ネット側にまるごと入り込んでしまうようなスタンスではなかったように思う。そして、ネットや新技術に熱狂はしていても、あくまでもそれを「見る」というスタンスからの熱狂なのだ。野球をプレイする選手ではなくて、野球を中継するアナウンサーのような立場だ。その引いた立場から、「あちら側」と「こちら側」の両方の世界を突き放して見ることができたからこそ、ネットの新しい動向を「翻訳」して、一般人に紹介する役割を果たすことができた。

こう語っているのを読んで、納得するところもないではなかったけれど。でも、もしそうだとしても、いや、そういうスタンスだからこそ、やっぱり梅田さんはもっと褒め続けて行くべきだと思う。

現代のWebでは人やモノやコトをネガティブに語る人は有り余るほどいる。耳を傾ける価値のあるものも、単に不満をぶちまけたりケナすコトそれ自体が目的のものも山積みになって転がっている。負の玉石混交とでも言おうか。

でもだからこそ、人に「褒めることの意味」を語り檄を飛ばし、自らもまた褒めること惚れ込むことで影響力をなした梅田さんは、ケナしたりクサしたりしてはいけないのだと思う。その役割を引き受ける人は世に多くいる。それを知っていたからこそ、梅田さんはオプティミズムを足場にWebを語ったハズで、そしてその状況は(悲しいかな)今も変わっていないのだから。少なくとも今はまだ。

さておき。

ボクはボクで、かつて梅田さんがそうしたように他の誰かをドキドキさせていかなくちゃいけないな、とも思った。正直言ってボクにはまだまだ荷が重いのだけれど。でも、背負おうともしないで、その重荷を人に押し付けるってのはみっともないものな。

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