「記号化」は背景にあるデータベースへのポインタ, リンクとして機能する。効率のよい情報の再利用という点で、情報処理的に非常に洗練されてるよね。
大地や太陽や砂漠といった自然界そのもの、正義や悪といった概念、死後の世界に属する神々、町や都市そ のもの、動物や植物。そして更に、擬人化の範疇は王の所有物にまで至る。たとえばシェスメテト(Shesmetet) と呼ばれる女神などがそうだ。古代エジ プトと擬人化の最先端 - 現在位置を確認します。
これら擬人化の範囲の広さは、現代日本における擬人化、商品のキャラクター化の幅広さに勝るとも劣らない。
ある意味、五千年前に日本人の先を走った人々とも言えよう。
エジプト神話の神々は現代の「萌えキャラ」に通じるというお話。
特にその図像に関して:
*全部分かったら凄い*
*全部別キャラらしいですよ…*
このように「エジプトの神々の図像」(頭の上に載せてる標章がないと誰なのか判らない
)と「ハンコ絵」(髪型と色の違いがない と誰なのか判らない
)を並べて見せて、その類似性を指摘している。
さらにはもう一歩踏み込み、バ ステト女神を指してネコミミ萌えに対応する概念の芽生え
とまで言及している。大変にユカイな考察であった。
さておき。ボクはこの両者の類似性は「記号化」(シンボル化)によるものだと考えている。
ア ヌビス神のシンボル(ジャッカル)を見れば、それが置かれている文脈とアヌビス神の機能や成り立ち, 物語などを突き合わせて「意味」を見出すコトができる。同様に現代日本のオタクである我々はカンフー少女を見れば、その登場した文脈と彼女に付帯された属 性や過去に参照した物語に登場した「カンフー少女」たちとを突き合わせて「意味」を見いだすコトができる。
「絵」から「記号」への転換によって、「図像」は、その背景にあるデータベースへのポインタ, リンクとして機能する。効率のよい情報の再利用という点で、情報処理的には両者とも非常に洗練されているじゃないか。
ただし、これは「記号」の背景にあるデータベースが共有されている場合に限り、正しく機能する。例えば中国の山奥で「ジャッカル」のシンボルを見せ てもアヌビス神が想起されるわけでなく、ポリネシアの海岸で「武道着を着た少女」を見せても「萌え」が想起されるわけでもない。
この点は注意が必要であるとともに、創作者的には極めて「美味しい」特性でもある。
それはつまり、意図的に「データベース」を差し替える, あるいは混在させるコトで全く異なった意味を付加できる、という特性だ。元来の「意味」と 並べてギャップが大きければ大きいほど、これは面白いよね。例えば前述の「バステト神=ネコミミ萌え」の図式の他にも:
- 日本のスサノオの「ヒゲもツメも伸ばしたまま泣きわめき仕事もしない」(=ケガレや喪を表現している)様子から「ニート」を読み取る
- 北欧のフレイアが「美しく性的に奔放」(=豊穣に通じる多産の表現)を見て「クーガー」(年下狙いの肉食系女 性を揶揄したコトバ)を読み取る
こんなのがある。
さらに一歩踏み込んで「記号」の一部を意図的に書き換えたり付け足したり、なんてのもあるよね。例えば:
- 「日本一の桃太郎」を女の子にしてみる
- 「九郎判官義経」を引っ込み思案にしてみる
そんなことを朝から思った次第なんである。どっとはらい。