「コラージュ人格」だって、そこにある「デザイン」に耳をかたむければ「声」は聴こえてくるよ。いっそ「自分」の存在を薄く保つ努力はZEN MINDじゃないか? #mind #creativity
tumblrとかtwitterとかで、どこからか引用してきた大量の素材でページを形成していると、 それが人格の発露と見なされる。コラー ジュ人格 - waveriderの日記
ハッとした一言。
tumblrのReblog, twitterのReTweet, そしてここでは挙げられていないけれどSBM(はてなブックマークやDelicious, Digg)などは「コラージュ人格化」を加速するエンジンとして機能するんだろうな。
元記事では、この現象を「誰も自分の言葉で会話しようとしない世界」
として否定的に捉えている。でも、そこまで悲観的にならなくても いいんじゃないかな。
創作者の世界では、すでに「全ての題材はすでに語り尽くされた。我々に残されているのは、それをいかに組み合わせ、どんな手つきで語るかだけだ」と いうのが一つのコンセンサス(全員に共有されてるかどうかは知らない)になっている。
ボクらの「会話」においても、それは言えるわけで。ボクたちが日々、口にしているコトバ, そこに載せられたメッセージは、ほとんどの場合、すでに誰かが語っている。オリジナル、と言えるのは「組み合わせ」と「手つき」だけ。
全てが「引用」であったとしても、まずそれらのコトバをキャッチする仕組みや過程などに個性はにじむ。それをどのサービスに、どのようにレイアウト (空間軸/時間軸)するか。そして、それが「誰」に届ける(コトバとヒトの組み合わせ)か……etc.
そこにはデザインがあり、であるならば「表現」の作法として立派に成立していて「人格の発露」が認められる。
「自身のコトバ」の不在なんて気にすることはないね。そこにある「デザイン」に耳をかたむければ「声」は聴こえてくるよ。いっそ「自分」の存在を薄 く保つ努力は抑制的でZEN MINDじゃないか。
……なんてなコトを思った瞬間に、コトバを組み立て始めるボクにはとても向かない表現方法だけどね。