e-mailはコミュニケーション不全を作り出すか?
再考したい「メールの功罪」:NBonline(日経ビジネス オンライン)という記事から。ちょっと今日は斜に構えた視線で。
この記事では、Face to Faceなコミュニケーションと比べ、e-mailでは相手の表情や声のトーン, その他、皮膚感覚として伝わる多くの情報が欠落することを述べ『一つは内容だけで早急に相手のことを判断してしまうということ
』,『2つ目は意図を確認したいから、相手に何度もそれを確かめるようになるということ
』と、二つの問題を指摘した上で、次のような事例を取り上げている。
あるメーカーの人事部はまさにこの問題に直面していました。部のメンバーはちょっとしたことでも相手の所に出向かず、メールで済まそうとする。部内はいつもシーンとしていて、話し声はほとんど聞かれない。場には淀んだ空気が流れる。
それは次第に部署全体の生産性にまで影響を及ぼし始めました。アウトプットが出るスピードが以前より遅くなり、業務が滞ることもしばしば起こるようになりました。
再考したい「メールの功罪」:NBonline(日経ビジネス オンライン)より引用
手段に過ぎない『e-mail』という仕組みが、コミュニケーション不全を起こしてしまうことがあって、そのあたりをFace to Faceなコミュニケーションに無理やり切り替えてやることで回復したんだってところに事例は終着するんだけども。
でも。
実はメールでのコミュニケーションが不全に終わるのは、テキストベースでコミュニケーションをはかるリテラシの低さ──つまり、文章力が不足しているからじゃないだろうか?
仕事を頼むときに何度も細部を確認されるのは頼み方が悪く、自分が必要としている成果物の要求仕様をきちんと伝えられていないからだ。
また、文章の行間から感情を読み取る/読み取らせるなどの繊細で情緒的な文章術は、むしろ日本人の得意芸だったはずだ。確かに、顔の表情や声音や場の雰囲気など大量の情報が欠落していることに変わりはないけれど、本当にそれらは必要なのだろうか? ちょっとした言葉の言い回しに気を使うだけで、文章の表情は必要十分なだけ柔らかくなったり厳しくなったりはしないだろうか? またFace to Faceと比べ距離がある分だけ、心理的な負荷は減らないだろうか?
Face to Faceなコミュニケーションの優位性は、情報量の多さよりも、そのリアルタイム性──相手の反応が瞬時に伝わる(ちゃんとメッセージを受信していれば、だけど)ところにあるのじゃなかろうか?
つまり、瞬時に相手の反応を読み取りながら、リアルタイムに伝えるべきメッセージや表現を組み替えていくことができる。それはe-mailなどの静的で非同期なコミュニケーションではできない。紛れも無い優位点だ。
このようなコミュニケーション形態では、メッセージの交換(コミュニケーションの目的は究極的にはメッセージの交換にある)はインスタントにかつ柔軟に行える。
けれど、その内容はその場限りに失われてしまうものでもある。別途に記録(録音や速記, 議事録など)をとるコストを掛ければ多少は残せるが、完全に再現することはできない。この点ではe-mailなどの静的なコミュニケーションに遠く及ばない。
さらに、レスポンスがリアルタイム性ゆえに、相互に『過剰反応』を起こして誤りを犯しがちでさえある。『相手に呑まれた』とか『売り言葉に買い言葉』とか『ジョブスの歪曲空間』とか、そーゆー類の現象である。
メールだから感情的にギスギスする, フェイストゥフェイスなら大丈夫──なんてのは、特殊な事例を抜き出したマボロシの類なんではないか?
だから、本当のソリューションは、文章力を磨くことじゃないのか? e-mailや、その他のWebに支援された諸々のコミュニケーション手段に合った作法や技術を、皮膚感覚として受け容れることじゃないのか。
ホントのところ、件の記事の真意は『安易に、e-mailに頼りすぎてると、いろいろマズいことが起きますよ』ってところにあるんだろうけども。
ただ、もうボクらはそういう段階をとうに過ぎていて、むしろもっと新しいコミュニケーションの手段や作法, 技術を積極的に身につけていくべきなんじゃないかと。
事例のケースでは、e-mail(つまり、新しいコミュニケーションの手段)から強制的に引き離すことで、元の状態を回復はしたけれども、それは単にテクノロジ以前の生産性を取り戻しただけで、テクノロジを使いこなす組織と引き比べれば、劣ったままなんじゃないかと。
──まったく違った課題を取り扱った記事ながら、ストリートビューは新デジタルデバイドを生む:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japanを読んで、そんなことを思った次第なんである。
余談
なんだか随分とe-mailを擁護するようなことを書いちゃったけど、ホントのところメールを中心に置いたコミュニケーションはボクもスキじゃない。むしろ時に苦々しくさえある。
ただし、それはFace to Faceがいいからってコトではなく、処理しきれないほどの情報フローが一方的に流し込まれる息苦しさと、パーマネントであって欲しい情報が、(実質的に)パーマネントであることを保証できない再利用性の悪さからである。
特に情報共有に関しては、Web/イントラ上にURLを持たせてパーマネントに参照できる状態にすべきだと思うわけだ。検索エンジンにWikiにblog, CMS──などなど。それを容易にするための技術はとうの昔にこなれてきてるわけだしね。
3 コメント:
大筋として同意。
非会員のため記事全文は読めないけれども、漠然と論旨は理解したつもりでコメントしたい。
文章力の重要、確かにその通りではあるが、e-mailは文章力を"必要"としないというのも一つの側面であると思う。
また、近年、コミュニケーション能力そのものの低下が謳われていることも考慮すべき問題ではなかろうか。
実は古くから、e-mailに似たコミュニケーション手段は職場に存在した。"書類"がそれである。
様々な通知書、連絡書などの"書類"で各部署に仕事を回し、在る時は一方的に、在る時は双方向的に仕事の意図をやり取りしていた。
"書類"を用いるのは記録が必要なもの、責任の所在を明らかにするものであるし、また、即時性―――知見を持ち寄って方針を決定する場合には議事録を取って会議をしたり、或いはちょっと他部署に行って相談をした。しかし、その記録性は桜井氏ご指摘の通り非常に低かった。
二者の中間として今e-mailが存在するようになり、本件筆者指摘の通り、e-mailがコミュニケーションの主体になる場合も出てきている。
だが、それは何がそうさせるのか?
Face to Faceのコミュニケーションは桜井氏指摘の通り心的負担が大きい、そして近年の日本人は心的負担に対する弱体化が進んでいるという報告がある、それは幼少時より心的負担に対する抵抗力を養う機会の現象が原因としてあげられる、してみれば心的負担とコミュニケーション選択との間に相関関係があり、楽な方を選択し続けているだけではないだろうか?
であるとするならば、e-mailコミュニケーションに於ける文章力の向上は望めない、何故ならばe-mailであれば言った傍から反論されることも無く、言いたいことを一方的に言える環境であると同時に、そこに"受け取る側の人間"を存在させないことがe-mailをコミュニケーションの主体とさせているからである。
"受け取る側の人間"の存在が文章に花を持たせる。
Face to Faceとe-mailのコミュニケーション選択時の心理動向には、もう1つの要素がある。Face to Faceの場合、自分だけでなく相手も時間の余裕が無ければいけない。ふと彼と話してみようとした時、彼が誰かと会話している最中であれば、私が遠慮して後にまわらなければならない。しかしe-mailであれば、思いついた時、自分さえ都合がよければ投げかけることができる。
これが一方性によるコミュニケーション選択の実態ではないだろうか。
この論が正であれば、問題とすべきはe-mailの機能でも使用者の文章力でもなく、コミュニケーション能力そのものの変容、他者を持たない人格―――「"あなた"の居ない"わたし"」ではないだろうか。
近年、理想自己に拘泥するあまり現実自我に対する公平な判定能力の発育が極めて遅れた人物をあらわす"ゆとり"という言葉も登場している。それは携帯電話などコミュニケーションの簡便化、コンビニエンス化がひとつの原因でもあるだろうし、その中にe-mailの、文章力を"必要"としない機能性も一端として含まれているだろうから原因と結果の間に多少の循環は存在するが………しかし根本が教育と子供が発育する社会環境の問題、更には社会の構成素の連結因子の問題にあることはまず間違いないと私などは思うのであります。
あー、なるほど。
『"あなた"の居ない"わたし"』という指摘は、とても面白いです。全く別の観点から、ボクの考察のとても深いところにグサリと刺さります。
コミュニケーションの重さは"あなた"の存在の重さに反比例する。
でも"あなた"の重さが0に達したとき、それは果たしてコミュニケーションと呼べるだろうか?
全く、その通りです。
ただ、Face to Faceのコミュニケーションは"あなた"の存在の重みを回復させるかといえば、必ずしもそうではないとも思う次第。
ボクたちの、そしてアナタたちの"あなた"が軽くなってしまった要因は、社会の変容や新しいコミュニケーション手段の特性にあるという指摘も、ある程度は納得しつつ──しかし、うなづききれません。
例えば団塊世代。彼らの行動様式の中にも"あなた"の消失が見受けられはしないでしょうか? あるいは、団塊世代の親の世代であっても。(幸か不幸か、ボクはそれ以上、上の世代の行動を観察する機会がありませんが)
おそらく、ボクたちは世代問わず放っておけば『楽な方を選択する』ようにできているんだと思います。そして"あなた"の存在を軽くするような選択は、常に"楽"な道である、と。
じゃぁ、解決策はなによ? という点は、まだ確信を持っていませんが。
しかし『想像力』と『皮膚感覚』の二点にあるのじゃないかと思っています。
まだボクたち以上の世代では難しいかもしれませんが、Webという、もう一つの空間を皮膚感覚として受け容れられる人々にとって、WebはFace to Face以上には"あなた"の存在を鮮明に浮かべることができるかもしれない。そういう仮説を持ちつつあります。
例えば、まだ一部の特別な例に過ぎないとは言え、IT系ベンチャーでは雇用者がWebを通じて候補者を見て採用を決め、逆に候補者もWebを通じて雇用者(会社ではなく)を見て就職を決めるような事例が散見されます。
Webを通じて知り合った人たちに、リアルな人たちよりも親しみを感じる──なんてのは、ボクたちが日常、折に触れて感じていることですよね。(ボクだけ? いや、そんなはずはないっ)
実際、リアルからWebへの情報の転写が進むにつれ、"あなた"の存在を感じさせる情報は増え続けています。
今はトクベツなヒトたちだけの皮膚感覚かもしれないけれど、近い未来にはいずれ──という予感を持たずにおれません。
とはいえ、元来、ボクらはリアルに生れ落ち、リアルの中で身を養い、五感に情報を入れていく生き物でもあります。Webに依存し、溺れてしまっては身を損ない五感を閉じていくのは自明といえるわけで──そのあたり、バランス感覚を失わないよう、我が肝にきつく釘を打っておきたいものです。
遅くなりましたが。
ウェブコミュニケーションの特徴の1つに、嘘のつきやすさが文章化の能力に応じる傾向、及び想像力の限界に応じる傾向があります。
画面というクッションを得ることで、"情報"の意味――相手が、相手の人格内に自分の人格を構築するプロセスの上で、ウェブもFace to Faceも等価であるということ――を正しく理解していない(意識的か無意識敵かはここでは区別する意味を為さない)場合、自分という人格を表現するに、人は正直になります。
してみれば、情報の有為性を見極められる人ならば、ウェブを通じた方がその人物像を正しく把握できると思います。無論、その情報量はある程度の量を、質は自発性を必要としますが。
これもまた、"あなた"の喪失による現象です。他人の目を自分に都合よく構築し、そこに実在を伴わない、従って表面を取り繕う方法も、実在の"あなた"を考慮する場合と考慮しない場合では異なります。
ところでFace to Faceならばこの現象が回避できるのかと言えば私も疑問です。
ただ、かつて――e-mailが存在しなかった時代――を生きていた人々の"あなた"の喪失と、現代の"あなた"の喪失とは、質を異にすると思います。
確かに、団塊世代にも"あなた"を喪失したコミュニケーションは存在する、"あなた"を喪失した人物も存在する……しかし、彼等は常に"実在"を"相手"にしなければならなかったのは確かで、恐らくこれが私の感じる違いをもたらしているのだと思います。
その相違は、古い世代の"あなた"を喪失させる人は、ほぼ例外なく、"自己内部"への"逃避"によって達成しようとする点です。対して現代に発生が多くみられる場合は、自己を押しつける場合が多く見られます。
「"公共"の意識の喪失」とか言われるものに通じるかもしれません。これは信仰の喪失にも強く関連するので一概には言えませんが……
また、量も異なる気がしています。現代は世代別割合として増加傾向にある、また、「"あなた"が喪失する場面」も増加傾向にあると思います。
前者は感覚的な問題なのでここでは深く論じないこととします。
後者は、同じ人物でも、コミュニケーションの場によって、"あなた"が喪失する場合と重大する場面とがあり、喪失する場面が増えてきているということです。
これらを総合しようとすると、ドイツ観念論では自己を規定することによって他者を規定するとし、フランス観念論では他者を規定することによって自己が規定されるとしているように、自己と他者の既定のプロセスに踏み込むことになり、個の内部における(つまり個人の現実世界形成に於ける)社会構築の基本形式が人類共通であるとして、構築の形式のうち成長の中でア・ポステリオリに構成される構築形式がどのように変化したのか、更にその構築されるインプットつまり現象がどのように変化したかを考える必要が出てくると思われますが、これはもう研究の域に入るので、軽々しくは立ち入れないかなあ、なんて思ったりします。
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